天気を話題に出せる文化

初対面でも話せる話題として、天気が挙げられると思います。天気が良ければ「天気が良いですね」というだけで不信感を持たれることはないだろう。また、「お足元の悪い中」などと慣用句になっているものさえあります。

天気の話題というものは、誰しもが気にかけているけれども、強いこだわりを持たれることがないことから適しているのだと思います。強いこだわりを持ってしまうと、政治、宗教、野球のように挨拶とはなりません。

ところで、天気について強いこだわりを持つ人、あるいは持つ状況とはどういうものでしょうか。

ひとつは、天気の状態が何か他のものを示していると理解する場合が考えられます。例えば、何かしらの吉兆を表すとでもなれば、気軽に話題にすることはできません。「天気が良いですね」ということがとても失礼な場合もありえるのです。このように理解することは、何らおかしなことではないと思いますが、日本では少ないのでしょう。もしかすると、天気は何であれ受け入れざるを得ないものと理解されているのかもしれません。

天気が良かろうが悪かろうが、それはまさに天がそうあるものであって、人間がとやかく文句を言うものではないというところでしょうか。他意はないということです。そうであれば、天気を話題にしても、それも他意はありません。

そうであるとしても、具体的な状況によっては天気に対して求めたくなることはあります。農業において雨が求められるように、昨今の真夏日に対して雨や涼しさが求められるように。原理的なこだわりがあるわけではありませんから、話題として提示することの問題性は低まるとは思いますが、雨を求めてる人に対して笑顔で天気が良いというのは憚られることはあるでしょう。

そのような特殊な状況ではあっても、天は天として受け入れられているのかもしれませんが。

天気のこれらの扱いは文化的なものだと思います。異なる文化圏であれば、まったく逆の理解もありえるところです。そうしますと、天気を話題にできるということは、知識として身につけるものとなります。誰しもが当然にできることではありません。無意識にできるようになる人は多いでしょうが、何気ない会話の導入として天気の話題をすることができるということは、階級や文化圏を表すものになりえます。

翻って、天気を話題にすることで、同じ文化圏に生きていることを確認できるともいえそうです。言語だけではなく、言語の中のルールを知ることで、言語を超えたやりとは、いくらでも存在するのだと思います。

天気への関心度

天気についての考え方はひとそれぞれです。私がいま考えているのは、ひとつは今ある天気をそのまま受け入れる者、もう一方は、季節や天気予報などの情報を得ることを当然として今の天気を理解する者です。

私はどちらかというと前者にあたります。暑かったり雨が降ったりすればそのように理解しますが、それに対して直接的な反応以上のものは特にありません。今日の天気がどうなるか、明日の天気がどうなるかについても、関心がありません。そのため、鞄の中には常に折りたたみ傘が入っています。雨が降りそうだから傘を持つという思考がありません。

他方で後者の場合は、あるべき天気が想定され、それを踏まえて今の天気が評価されます。予定と合致すれば特段問題は生じませんが、予定と相反した場合には、不満が出てきます。雨といわれていて晴れてしまえば傘を無駄に持ってきてしまったことになり、晴れといわれていて雨が降れば傘がなくて困ります。また、今夏のように平年よりも暑くなると、なぜこんなに暑いのかという不満を持つことになってきます。

天気への関心度合いでいえば前者は零、後者は百とすると、先の天気が気兼ねない話題になることは、関心度合いでいえば20か30あたりでしょうか。私としては、天気の話題の有用性を認識したことで、あえて関心を持つようになりました。テレビやラジオなどで天気予報に気がつけば、一応は関心を向けるようにしています。それでも1週間分の予報を確認しようという意識にはまだまだ至りません。梅雨が早いとか、花粉が多いとか、警報が出そうだとか、そういったところから頭の領域を割り振っていこうと思っています。

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