正解のないその場の言葉の選び方

コミュニケーションスキルが大切などと言われていますが、その中身については各々が都合の良い解釈をしています。対話の中身なのか、形式なのか、その結果の雰囲気なのか、人と人とのやりとりがある以上、コミュニケーションスキルと言っておけば否定しずらいところが都合よく使われる理由に思えます。

ある程度の決まり切ったやり取りの場合は、その場の言葉遣いに則って言葉を使うことが円滑なやりとりを生み出します。場合によっては相手の言葉を選んで使うことも有益です。その言葉を選ぶこと自体にも資本は必要であり、それが文化資本になることは多大にあり得ると思います。自分の中で瞬間的に出てくる言葉であって、相手にその言葉がなければ結局はコストが大きくなり、場合によっては目的が達成できないことも生じます。

身近な例でいえば、飲食店で水を頼むときに、水というのかお冷というのかや、シロップが欲しいときに砂糖というのかシロップというのか加糖というのか、なんてことはない言葉ですが、積み重ねれば腹立たしくなることもあるでしょう。こういった場合は、たいていはその場で使われている言葉を使うのが最適です。店舗側においては、メニューが有りマニュアルが有り、店員側にそれほどモチベーションはありません。そこで客ごとに主張をしていてはその場に使われるコストが多大なものになりそうです。客側が少しずつその場に合わせるというコストを支払うことで、円滑さに多大な貢献ができるはずです。

言語を共通化することは、学問でも昔から行われていることです。デカルトの「方法序説」にて、それまで多種多様であった表現を統一する方向性を示したと、解説されていたように思います。言語を共通化することで、その内容を示すことに集中できた結果、学問の進歩は飛躍的に早くなるはずです。

悪くすると、閉じたコミュニティになることもありそうです。わかってないということで弾かれることで、新規の参入者は減り続けてます。それでも閉じたことによるメリットが大きければ問題はありませんが、ここの見極めは大切にしたいです。

また、新しい言葉により新たな場を作ることでビジネスになることもありそうです。悪いコンサルタントなどが専門用語を駆使して見せかけの専門性を作り出すこともできそうです。切り口の新しさはありますので全体的に非難すべきことではありませんが、言葉巧みになどと言われるときは、悪いイメージが付き纏います。

さらには、あえて使われていない言葉を選ぶことで、会話を煙に巻くこともできます。わかっている人から見えば、悪質性が際立ってくるのですが、一定のごまかしとしては使えそうです。最近では、メディアなどでこのような議論を見かけることが増えてきた印象があります。一見論理的ではありますが、議論を避けているという印象を与えるデメリットとのバランスは見極める必要があると思います。また、時間が限られているときにだけ有効になり得る方法かと思います。形が残りやすい文字によるコミュニケーションにおいては、対話の穴が目立ってきてしまいます。

何のために、その言葉を選ぶのか。メタ的に見られたときに問題がないか、言葉として発した場合には、それによって評価されることは十分に考えなければならないと思います。

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