ふと気がついた。以前はきれいだなと感じていた女優さん。数年経ってたまたま目についた。久しぶりに見る彼女には、以前感じたものを感じることはなかった。もちろん今でも美人ではあると思うのだが、以前感じた驚きのようなものは感じない。試しに当時の画像を探してみてみると、当時の感情の一部が蘇ってきた。私が好きだったのは、あのときの彼女であった。
人は常に変わるものであるから、特定の時期に好感を持ったとしても、それが常に持続するとは限らない。私も変わっているのであるが、今の私は今の彼女にそこまで特別な何かを感じることはなかったのだ。それだけのことであり、良しも悪いしもないことだ。また何か感じることがあるかもしれないし、そうでないかもしれない。彼女の性格などを知れば、また変わっていたかもしれない。「一時的なものや変化するもの」であっても、その瞬間に価値がある。
ところで、少し前に「推し」という言葉を聞くようになった。以前であれば、単にファンなどと言っていた活動と重なると思われる。言葉が変わったということは、そこに含まれる意味合いも変わった可能性が多分にある。ファンに態様が変わったのかもしれない。そういった環境に浸かったことがないので、いまいち掴みきれないが、対象が比較的身近になったことの影響が推察される。推すことは、推した結果についての関与を仄めかす言葉に思われる。推した結果として、対象が成長したりするなど、完成されていない者が想定されているのではなかろうか。共に成長するといったコンセプトに合致して、ファン側の活動態様もそれに合わせて変化してきたのではなかろうか。成長するアイドルがいれば、成長させるファンがいる。そこには多少の相互性が認められる。
推しともなれば、そこにあるのは変化の可能性であり、未知数さが魅力でもあり、また他方で好みによる可塑性も魅力であり得るだろう。それを受け入れる態度は、先の私が感じた印象による好悪(嫌いというほどえはないが)とは異なる態度だ。瞬間的な状態で判断するのか、ある程度の長期を見据えた関係性による判断するのか、対象に対する態度としては比較しても仕方がない違いが認められる。
女優やファンなどの界隈以外の関係性においても、瞬間的な関わりと長期的な関わりではその評価根拠が異なるだろう。今考えるべきことが、瞬間的なそれなのか、長期的なそれなのか、意識できることで見えてくることもありそうだ。
瞬間的なものであっても、そのときの特別感が長期的に影響を与えることもあるだろう。懐かしい曲から感じられる匂いなど、瞬間が持続する形態である。対象の変化を受け入れるのか、それともその瞬間を絵画のように固定的に受け入れるのか、私が受け入れる側にせよ、受け入れられる側にせよ、考えなければならないことである。
また、私が私を受け入れる方法も、今の快楽を大切にするのか、変わり続けた私すべてを受け入れるのか。自分自身を否定したり拒否したりするのではなく、受け入れたうえで、受け入れ型を変えていきたい。