私は煙草は吸わないし煙も嫌いである。最近は飲食店でも喫煙できる場所は減ってきていて、ありがたいと思っている。それでも吸える店はあるし、喫煙室が用意されているところもある。店内で吸える場合には、入ればすぐに分かる。吸える場所であればたいていは吸っている人がいるし、いなかったとしても匂いが染み付いているものである。わかりづらいのが、喫煙室のある店舗だ。
喫煙室がある店舗は、一見してはわからない。喫煙室はたいてい奥まったところにあるし、トイレの近くにあることもある。店舗の入口から見えることはめったにない。そして、昨今の厳しさから、喫煙室があれば吸う人がいるものである。そして、喫煙室を利用する人が隣にいれば、それはもはや禁煙ではなくなっている。煙草の匂いがする。そういったとき、喫煙室がある店に来てしまったことを後悔する。
自分の確認不足であるし、完全なる禁煙空間を選ばなかった選択ミスである。注文前であれば店を出るが、たいてい気づくのはしばらく時間が経ってからだ。
煙草限らず、本当に静かな空間を手に入れることは簡単ではない。街を歩けばそこには人がいるし音もある。店舗に入れば他の客もいるし音楽がながれている。いくら集中したとしてもそこはやはり社会に開かれた空間である。見せかけの静けさはあるとしても、意識のいくばくかは静かに感じることに費やされてしまっている。
もっとも簡易な静けさや自宅の中にしかないのかもしれない。そうすると、家から出ない人の行動は合理的であり、当然の行動である。静けさを求めて街中に出るのは不合理である。人は家に籠もるか、山に籠もるしかないのかもしれない。
そういえば、車は移動する個室だと言っていた人がいた。車は外界と接しており、その壁は厚いものではないのだが、その断絶性の強さは強固な壁に匹敵する役割を担っている。移動することにより、外界が引っかかることを難しくしている。引っ掛かりの難しさで言えば、まさに自宅と同程度の実質的な密閉性を有しているかもしれない。完結することはないけれども、適切な場所や適切な時を選びやすくなる手段として優れている。
車は移動の手段でしかないが、それ以上の可能性を秘めている生きる道具であるのかもしれない。