「本当はいい人なんです」か

本当はいい人なんですという言葉をときどき聞きますので、整理しておきたい。たいていは問題が起きたときに言われます。こんなことをしてしまいましたけど本当はいい人なんですというやつです。根はいい人ですも同類です。この言葉を発するときの気持ちはわかります。日頃のその人からは思いがけないことをしてしまったときに、この言葉は出てきます。これは彼にとっては異常なことなのだ、いつもの彼ではないのだ、本当の彼ではないのだと。

この言葉には続く内容があるはずです。本当はいい人なんです、だから許してほしい、だから厳しい対応はしないでほしい、だから見逃してほしい。もう少し誠実な内容としては、だから今回のことだけで判断してほしい、彼の本性などは関係ないので無視してほしい。

結論としては、あまり有益なことがではありません。これを言われて、対応を変えるひとはいないでしょう。怒るは怒るし、怒らない人は怒りません。第三者の評価を聞かされたとしても、あなたには関係ないと言われるのがおちでしょう。

本当の正確や、根がいい人かどうかは特定のできごとにおいては関係ありません。そこの関係性においては、そこでの彼の行動が問題とされるのであって、そのとき以外の行動は問題とされるべきではありません。いい人であろうが、特定の行動は相手の反応を引き出します。悪い人が悪いことをしようが、良い人が悪いことをしようが変わらないでしょう。もしこれを許してしまえば、本当は悪い人なんですも通ってしかるべきです。いくら優れた行動をとったとしても、悪い人だから評価されるべきではないというのは、彼の存在そのものですべてが評価されるということであり、差別といわれてしまうでしょう。

根がいい人であろうが、そこから出てきた幹や葉が望ましくないものであることはあります。それらを剪定して、望ましい姿になることもあります。

問題を起こしてしまったときには、それそのものに対して誠実に対応しなければならないのでしょう。その行動こそが、本当はいい人なのか、根はいい人なのかの現れの一つになるはずです。本当はいい人なんですと言うのではなく、彼に協力する姿勢を示すことで、彼は日頃は信頼されている人物であることが伝わるかもしれない。安易な許しを請うのではなく、なるようにしかならない中で行動するしかないのでしょう。

対応をしなければならないときも、あまりその人の本性を気にしても仕方がありません。そもそも瞬間的な出会いで本性などわかりませんし、長い付き合いだとしても彼のすべてを知ることはできません。見えている範囲でしか判断することはできませんし、すべてが見えていることはありえません。もしかしたらという内容は、容易に信じられる範囲で考えれば足りるのではないでしょうか。

シンプルに行きたいです。多大なる戒めを込めまして。

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