いっときの正義と損失

最近では、社会の隅々にまで適正化の勢いが流れ込んできている印象を受けます。キャンセルカルチャーに極致されるように、その範囲と深さには際限がないように思われます。間違っているとされることが、正しいとされる方向へ修正される事自体を非難することは難しいです。しかしながら、そこに何かしらひっかかる違和感が残っていることも間違いありません。

すぐに気になることは、非難の態様の勢いがつきすぎていることです。いわゆる炎上とも関連しますが、瞬間的に燃え上がり、それほど関連性のないと思われる層からも非難が殺到します。これらの反応する方々は社会全体でみれば一部に過ぎないのではありますが、それを取り上げ助長している媒体もあるように見受けられます。一罰百戒とも違い、その者に対して著しく過剰な罰を与えているように思えてなりません。

他方では、それが本当に避難されるべきことなのかという判断が軽視されていることが間々あります。良いことか悪いことかと分類すれば、どちらかといえば悪いことに分類される場合であるとはいえ、その程度が考慮されずに、全力で非難されるという構造が目につきます。いま書いてみて捉え直しましたが、非難が常に全力であるからこそ、避難されるべき程度は非難の程度に対して影響を及ぼさないということです。

行為の悪質性が、道義に反することであれ、法律に反することであれ、ほぼ同程度の扱いを受ける印象があります。しかも、それらの非難を受けるか否かは社会の捉え方による運に多大な影響を受けています。この流れの行き着く先は、部分的なマナー違反でさえも同様に扱われる可能性が否定できないことです。そういたしますと、最善た対応策はその運をいかに管理するかということになるのでしょう。それが力なのかもしれません。

いずれどこかで揺れ戻しがあることを期待してはいますが、それがいったいいつ訪れるのかはわかりませんし、適切な時期をはかることも容易ではありません。しかしながら、社会が完全に崩壊するとは信じられませんから、どこかで冷静になるタイミングがバブル崩壊のように訪れるものと思います。

そもそも、何もかも正していくという対応はやはり違和感が残ります。道着や法律は絶対的なものではなく、これまでの社会のなかで培われてきたものです。その現時点での一瞬の結果によって、すべてを清算することが正しいわけがありません。仮に社会は進歩しているとしても、完全な進歩に至るまでは不正確なものが残っています。常に絶対的な正義の執行など不可能でしか無いはずです。いっときの仮初の正しさにより、失われるものが大きすぎる場合もあることを忘れたくはありません。

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