言葉であり言語であった

ケアレスミスだね!

小さい頃、ケアレスミスという言葉を使われていた。悪意も非難もなく、そういうものだという評価を受けていた。テストで誤った解答をしてしまい、それに対して、ケアレスミスだねという具合にだ。

特段問題のない使い方であると今でも思うが、当初私はこの言葉の意味がわかっていなかった。言葉の習得においては、当然何もわからない状態からわかる状態へ移っていくのだと思うしこの言葉もその一つであったに過ぎないのだが、変わっているところがあるとすれば、この意味がわからないという状態が暫く継続しており、そのことについての私の当時のものとおぼしき記憶が残っていることだ。

私の認識

この言葉を使う側は、おそらく間違いはしたけれども理解できていないわけではないという意味で使っていた。落ち着いてやれば解ける力はあると。それが、制限時間やら何かしらの外的要因によって不正解であったと。

当時の私は、この意味づけについては理解していたように思う。しかしそれは言葉から理解していたわけではなく、それが使われた状況から、そういった意味であろうと理解していた。おそらく、内容を理解していないわけではないという共有された情報から理解していたのであろう。

そのように一応の意味は理解していたが、ケアレスミスという言葉はどうも座りが悪かった。私の中で、言葉として宙に浮いてた状態であった。明らかに外来語でありカタカナで理解されるこの言葉は、他の言葉の言語空間の中につながりや定位置を持つことができていなかった。この言葉は、この言葉だけで存在し、特定される意味らしきものを伴ったまま、ただ孤独に存在していたのである。

私自身がこの言葉を使うことはなく、使われることによって、その孤独は再び引き出され、その言葉を理解するためだけに使用される。そして、そのまま他とのつながりを生むことなく、消え去っていく。

このような体験は、他の言葉では記憶しているところがない。

外国語の学習時に似ているところはあるだが、外国語の場合は、単独で存在する言葉というものは存在しない。当初は繋がりがわからなかったとしても、学習が進むに連れて何かしらのつながりが生じるものだ。それが言葉の習得である。いわば、当時の私にとって、ケアレスミスという言葉は、ひとつの言葉であるだけでなく、ひとつの言語でさえあったのだ。

ChatGPTがすくい上げる上澄み

ChatGPTによる喧騒の中で、人の仕事を奪われると言われている。そういった面は新しい技術には常につきまとっている。そして、ChatGPTで人間が不要になるとさえ言われている。

しかし、少なくとも現在のChatGPTが新しい言葉を生み出す可能性は低い。むしろ、それが低くなるように設計されているはずだ。そうでなければ、学習ができない。今後、守破離の段階を進んでいくのかはわからないが、今私の目の前にあるそれは、人間が作り上げてきたもの、生み出してきたものの上澄みをすくい上げているだけでしかない。

そこには取り上げられない、または取り上げられづらい深みは切り捨てられている。この状態で、人間が不要になるということは、なんときれいな割り切りであろうか。鶏が先か卵が先かには関係なく、言葉を失うということは、人としての重要なものを失っていくということだ。そこを軽々しく切り捨てていく人たちは、何を目指していくのであろうか。

私にとってのケアレスミスは、ChatGPTにとっては取るに足らない希少事例であり、サンプルとして評価されない外れ値となるのであろうと、一抹の寂しさを感じたところだ。

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