触れていたい物

尊いもの

読みたい物が作れればいい。それがメモだろうが、まとまったテクストだろうが、一遍の小説だろうが、一首の歌だろうが。

見込みを付けて読み漁るのも良いし、自分自身で作り出しても良いし、偶然に手に入れても良い。

それが私の目の前に在ることが尊いことだ。

尊いものに対して、常にアクセスできる環境は必要だろうか。それができて悪いことはない気がする。できなくてつらい時はあるだろう。本当だろうか。

そこまで入れ込んだものであれば、わざわざ手元になくとも、私の中にあるのではないだろうか。そこまで尊いのであれば。

しかしこれに対する答えは否だろう。そこまで私は安定していない。素晴らしき物たちによって常に磨き続けられるからこそ、私がありたい私であり続けることができるのだ。何もせずに今の私を維持できるなどと自惚れてはならない。

常に手先に

常にいじり続けられることほど大切なことはない。完成品を愛でる気持ちはわかるし、完璧すぎて触れることも憚られることも珍しくない。しかしそれは私の中にはない。それと対峙することで私が変わることはある。しかしそれを遠ざけたところで私が変わることはない。一定の距離が離れていては、お互いの影響はなく、関係性は変わらない。そして、いつしかその関係性は忘れさられるだろう。

完全な関係性は蟻の一穴で崩れ去り、取り戻すことができない。小さく揺れ続けることを私は選びたい。

関係性は自ずから変わっていく。手に触れることによって変えてゆく。私も変わるし対象も変わる。私が変わるし対象が変わる。そこに進歩もなく退化もない。私は私として居続けるのであるが。

懐かしい歌

ふとした時に、忘れていた歌が聞こえてくる。そこには昔の私が思い出される。思い入れがあったのかも知れず、流行であったのかも知れず、思い出の時があったのかも知れず。

一度聞き、二度聞き、さらに聞き続ける。知らない旋律を知り、知り尽くした音を思い出す。私を隔てたときは取り払われ溶けてゆく。ひとつの曲は、一塊の音となり、私の身体に溶け込んでゆく。

音楽にほとんど思い入れのなかった私をして思い起こされるものがある。私でなければ、私が異なっていれば、あそこに私がいれば、また別の塊が生まれることになったのだろう。

それでも今この手元にある柔らかなひとつの塊を大切に。

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