ChatGPTと文章への敬意の念

ChatGPTの現実感

ChatGPTへの驚きや期待が大きい場合、それはある意味で厳格さについて許容するハードルが低くなっているのではなかろうか。その達成度でいいのか本当に考えられているのだろうか。

道具として有益であることは疑いない。しかし、その有益さにも限界がある。ChatGPTの特性が活かしやすい分野はある。それらの分野ではChatGPTが絶賛されているところ、ChatGPTがあらゆる分野でブレイクスルーを起こすかのような万能感が醸し出されている。しかし、そうでない分野もまたあるのだ。そこでは、ChatGPTのさらなる発展が求められている。

ChatGPTを実際に使ってみた人たちは、その限界を肌で感じられているのだろう。ChatGPT発表当初はシンギュラリティという用語がちらほら使われていたが、ChatGPTの広まりと反比例するようにシンギュラリティとは言われなくなってきている。そこにあるのは一種の失望感と、今できることに取り組もうという空気感だ。

文章への敬意

そんな具体的感覚をもって批判される状態で、気になるものが、AIにしてはできていることをもって、素晴らしいとしているような状況だ。ChatGPTにおいて真偽は判断されていないことはもはや周知のことであるし、その回答の論理性についても必ずしも十分でないにもかかわらず、それなりにできていることをもって、絶賛されているのがちらほらと目についてくる。

評価はひとそれぞれであって、そこに正誤はないのであるが、そこにはその人の文章に対する姿勢が表れていると感じられる。そのような文章で満足できるのか、文章の厳格さへの配慮や敬意はないのだろうかと思われるのだ。

もちろん、批判するのは容易であって、表現するのは困難さが付きまということから、表現された内容についてはそのあたりを割り引いて称賛することは否定されることではない。しかしながら、そのような忖度ではなく、純粋にその論理性が疑わしい文章をに対する疑問が生じていないかのような事象が存在しているのだ。

これは程度問題であって、私の感覚よりも厳格さを求める人もいるであろうことは意識しつつ、文章とはそこまであいまいさを残したままで本当に良いのか、その程度の厳格さで、これ以上の有効性を期待することができるのかという気持ちは持っていたい。

思い返せばChat-GPTは正誤を考慮しないだけではなく、文章としての正確さをも確率で評価された結果として得ているのであるとすれば、それは我々人間が作り出した文章の厳格さから離れることはできないのではないか。そして、我々のあいまいさも引き継ぐことができるのではないかという価値もあるのかもしれない。

ChatGPTの文章は確かに整っている。これは、統計的に著しく外れた表現などは採用されないことに表われに思える。文法的な誤りはほとんど感じられない。しかし、その文章を読んで感じることは、表現できないことは触れないということだ。表現しきれる内容に限って回答をする。そこに書かれなかったことについて、それが書かれなかったことそのものに、気持ち悪さ不誠実さを感じているのだ。

私はそんなものは求めていない。それは対話の否定であって、形式的であるなどとして批判されてきたものではないか。そこに違和感を感じることは忘れたくない。

そしてもちろんChatGPTが悪いわけではない。ChatGPTとはそういうものなのだ。

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