ポストモダン・エッセンシャリズムで良いのか

哲学だとか、教養だとか、大きな言葉はその意味が定まらない。そういうものなのだから、これが哲学だ、これが教養だという言説は、それが何を主眼としているのかを考えるしかない。本当の哲学だとか、本当の教養だとかを考えることは大切だが、唯一の正解があるとは思えない。本質だとか、イデアだとかは、求めるべき目標ではない。

言ってるそばから、本質があるかもしれないと考えつつ、本質はないと考えるということになっているのだが、これはそれなりにありふれた考え方だと思う。何か名前がついているのではなかろうか。

困ったときのChatGPTで聞いてみたところ、聞き方が悪くまずはエッセンシャリズムだと言ってきた。

「エッセンシャリズム(Essentialism)」という言葉が、本質やイデアを探求すべく考える姿勢を表す場合があります。この考え方では、すべてのものには本質的な属性や特性があり、それを把握することが真の理解につながると考えられています。ただし、あくまでも仮定の上に成り立っている概念であり、本質的なものが実在するかどうかについては哲学的な議論がなされています。「エッセンシャリズム(Essentialism)」という言葉が、本質やイデアを探求すべく考える姿勢を表す場合があります。この考え方では、すべてのものには本質的な属性や特性があり、それを把握することが真の理解につながると考えられています。ただし、あくまでも仮定の上に成り立っている概念であり、本質的なものが実在するかどうかについては哲学的な議論がなされています。

ChatGPT

本質について考える部分はまさに本質主義(エッセンシャリズム)であるが、最終的な部分では本質はないと考えているという部分も含めて回答を出したところ、今度はポストモダンエッセンシャリズムだと言ってきた。

「ポストモダンエッセンシャリズム(Postmodern Essentialism)」という言葉が、ある種の矛盾を含みつつも、「本質やイデアは存在しないが、それでも探求する価値がある」という考え方を表しています。この立場では、本質やイデアが実在するという従来の考え方には疑問を投げかけつつも、それらを探求することが人間の価値や文化的な発展に重要であると主張されます。

ただし、ポストモダンエッセンシャリズム自体が、現代哲学におけるかなり特殊な立場であることを踏まえる必要があります。一般的な哲学的な立場では、本質やイデアが存在しないとする主張は、哲学史上様々な議論があるものの、一定の支持を得ています。

ChatGPT

エッセンシャリズムが、ポストモダンに至ってその完璧性が揺らいできたといったところか。ありそうなのだが、これは一般的な用語なのだろうか。検索したところ、どうもこういった用例は見当たらない。ポストモダンエッセンシャリズムというだけでは、エッセンシャリズムがどのように修正されたかが表現されておらず、用例が少ない状況では、一般的な用語ではないのだろう。ちなみに、日本語では検索結果は0件であった。

仮にこれがChatGPT特有の回答であるとすると、後付で考えてみると、ポストモダンという用語は、特定の言葉の意味をある方向へ修正し就職する場合に用いられている便利で恣意的な言葉といったところか。なんでもかんでもポストモダンになってしまうことがまさに顕著であって、ChatGPTもなかなかやるではないかといった印象だ。

ChatGPTが生み出す用語

ChatGPTの回答は必ずしも真実ではない、むしろChatGPTにとっては回答の真実性は評価対象ではないと考えられる。そうであるから、ユーザー側である私も真実性は求めていないのであるが、それでも一定の処理をした上での回答には、再現性があると考えられる。先のポストモダン・エッセンシャリズムという用語がChatGPTの造語だとすると、このような造語を生み出すのはChatGPTのお家芸ということになりそうだ。

これまでの社会では、こういった既存概念が組み合わせられた語や、一見すると一般的用語かと思える語などは、歴史的文脈によって特定の意味を持つ傾向にあったと思われる。例えば、法治主義と法の支配の意味が全く異なるように。

しかし、ChatGPTが使用頻度の低いあるいはこれまで存在しなかった語彙を用いるときには、その歴史的文脈が弱いかあるいは存在しないことがある。そこに生まれるのは、足元の弱い言葉たちが溢れた世界であり、言葉の崩壊に向かいだしやしないか。

人間同士であれば、珍しい言葉は使われなくなるものだ。使われ続ければ、業界用語になり、場合によっては一般用語になることもある。そこでは、言葉の淘汰が行われている。しかし、ここにChatGPTのようなものが入り込むとどうなるのだろうか。ChatGPT同士の会話という部分の分量が増え続けると、人間はLLMが用いる言語を間借りするという構図が生ずるかもしれない。

LLMはもともと、人間が用いている言語を学習した。そのため、人間の言語に対応したモデルを持っている。ChatGPTは、いちどすべてを英語にしてから処理をしているようだが。ChatGPTは、世界中にある全ての言語を、翻訳も介しつつ一つの体系に落とし込んでいるとも言える。そして、LLMの性質から、より確率の高い用法を学びつつ、他方では確率の低い用法についても蓄積をしていることになるだろう。そこにはグラディエータションがあり、確率の低い用法においてもなだらかな用法の存在は存在するのであって、そこに新たな用法や用語が生まれることは必然だ。

ChatGPTがより発達するなかで、より人間的な言語を身につけることも期待されるが、他方では人間が用いない新たなあ言語を生み出し続けることも避けることはできない。人間側やユーザー側がトリガーを引かなければその新たな言語が日の目を見ることはないとは思えるが、ChatGPTが人間の知らない言語を用いて情報処理を行っているということは、すでに生じているとも考えられる。これは、これまでの機械語とも異なるものだ。これまでの機械語は、あくまでも人間が設計したものであって、機械が処理しやすいという性質はあるものの、人間も理解することができるものであった。しかし、ChatGPTの新しい言語は、まさに発見される言語というべきものだ。

翻って、新たな言語でなくとも、既存の言語において新しい用語を生み出すことも必然となる。それが受けいられれる場所は、人間社会の中なのだろうか、それともLLM同士の処理の中なのだろうか。人間は、ChatGPTが生み出した言葉を、違和感なく使用していくのだろうか。今でさえ、人間は知らない言葉については、それが使われている状況やその言葉の意味などを知ることにより、自らの語彙に組み込んでいく。ChatGPTが生み出した新しい言葉といえど、その従前の処理になんら支障を生み出すことはない。誰が最初に用いたかなどは言葉にとっては重要ではないのだから。

これはおそろしいことなのだろうか、それとも大したことではないのだろうか。これまで私が得てきた言葉は、数え切れない人々の歴史の結晶だ。しかしながら、私はそのれ歴史的経緯についてほとんど無知である。誰が何を話したか、誰がいかなる言葉を使ってきたか、誰がいかなる活動を行ってきたかなど、何も知らない。それでも、そこから生み出された言葉を使っている。そうであれば、たとえChatGPTが生み出した言葉であろうと、他のこれまでの言葉と何が違うというのだろうか。こう考えはするものの、何故かすっきりとはせず、違和感が残っている。

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