動物との婚姻とは
一部の国では動物との婚姻が認められているようだ。婚姻が具体的に何を指すのかは、同性婚に関する裁判でも顕著になった問題だ。
そこは仮に良しとしたうえで、婚姻というからには、両者の合意が必要だろう。人と動物の合意をいかにして確認するのだろうか。
人側の合意は可能だ。人間同士の婚姻と差異はない。では、動物側の婚姻の意思はどのように確認するのか。基本的に動物や話すことはできない。そうすると、態度で示してもらうしかない。では、態度から一義的に婚姻への合意を示せるのか、そして評価できるのか。
動物側の意思
動物側の合意のためには、動物側に意思がなければならない。人間にさえ自由意思はあるのかという問題があることを考えると、動物に自由意志があることも、ひるがえって否定しづらいものかもしれない。人間に意思があるとするのであれば、動物にもあるとすることもあるだろう。
その動物の意思は、婚姻に対する意思を示すほどに具体的かつ個別的なのだろうか。人間であれば、婚姻制度に対するある程度の理解は期待できる。動物に、それを期待できるのか。期待できるとして、その判断基準は何なのだろうか。どうもよくわからない。言葉を介さない仲で、このようなことが相互理解可能なのだろうか。
婚姻をするというからには、人間から動物への何かしらの敬意があるとみたい。だからこそ、婚姻により何らかの一体性が得られるのだ。
しかしながら、相手方たる動物の意思の判断が難しいにも関わらず、動物との婚姻を認めることは、動物の意思に対する軽視を意味しないだろうか。動物の意思がわかるというのが、傲慢ではなかろうか。
一方的好意がときとして暴力性を持つことは、人間同士において否定することはできない。ストーカーという言葉が広まり、ストーカー行為等の規制等に関する法律という法律名にまでなっている。人間と動物との婚姻は、このストーカー的要素が含まれていやしないだろうか。一方の動物が言葉による意思表示ができない状態で、いったいこれを誰が判断できるのか。
異類婚姻譚
どんなものかと検索してみたが、異類婚姻譚という言葉が出てきた。言われてみれば正にこれである。日本神話においても存在する、人間と異類・異種との婚姻である。最も有名なものでいえば、ホヲリノミコト(火遠理命)がヤヒロワニ(八尋和邇)であるトヨタマヒメ(豊玉毘売命)と婚姻し、フキヤアヘズノミコト(天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命)が生まれている。フキヤアヘズノミコトは神武天皇の父である。
しかしながら、このような異類婚姻譚と動物との婚姻のことなるところは、異類または動物側の意思の確認の容易さである。異類婚姻譚では、動物もその主体性においては人間と変わらない役割を与えられている。トヨタマヒメは人間であるといわれても特に違和感はない。むしろ、異類側の意思が明確でなければ、物語としては体をなさないのではないだろうか。
動物と会話ができないというのは了見が狭いといわれればそれまでなのだが、やはり異類婚姻譚と動物との婚姻は同種ものとは言い切れない。
そこには、相手方に対する敬意と軽視の著しい違いがあると思えてならない。