おすすめの難しさ
おすすめを求めているとき、何を求めているのか。
おすすめには、そのおすすめする人の特徴が表れる。特定の分野で間違いのないものと言ったところで、求めている側にとっては、どのレベルのものを求めているかによる違いがあるし、求めている人の特性もある。さらに、おすすめする側にとっては、どのように理解して欲しいかの違いがあるし、相手に期待する内容もある。
そうはいっても、おすすめを求めることはある。
とっかかりとして有益であるし、手当たり次第に試すよりは何かしら良いものがあるという期待もある。場合によっては、最適解が得られるかもしれないという期待もある。
そうはいっても、得られたおすすめが良かったのかどうかは、しばらくはわからない。自分なりのおすすめができる段階になって、ようやく分かるかもしれないというところだろう。
おすすめをしたい、楽をさせたいという欲望には、欺瞞を感じてきた。これは、どうも受け手の多様性を無視していると感じられるからだ。そこに絶対的な正解がないはずなのにもかかわらず、与えたいという考えは、きわめて自己満足的である。
おすすめしたい気持ち
自己満足的ではあるがおすすめしたい気持ちも理解できる。教えたい、知らせたいという気持ちは純粋で損得がないものであるし、それを知ったときの感情を味わってほしいという気持ちにも嘘はない。しかし、そこは相手があることなので、純粋であるがゆえに相手の都合は考えていない。
世の中には、そうやって与えられるものはあふれている。インターネットが普及したことも、それに拍車をかけている。与えられる側としては、その中から良さそうなものを選んでいけば良い。
ここまで考えると、これはなにもおすすめやキュレーションに限ったことではない。自分が知りたいと思ったことについて、適しているであろうものから学んでいくということだ。与える側と与えられる側の対応が多様であり、ずれがあることだけ覚えておけば良さそうだ。
インターネット的にまとめれば、おすすめは好きなだけすればいい。受け手が選択してけばいい。
ChatGPTの平凡さ
こんなことを思ったのは、ChatGPTを使っていてふと思いついたからだ。ChatGPTは、平均的な提案をしてくれる。それは、最大公約数的なありふれたものに終始しているのであるが、それに対して面白みがないといらだつことは滑稽だ。その提案は、ひとつの提案として考えれば良いだけだ。
無難な、ありふれた提案をしてくれることにも、価値はある。一種の要約である。それが目的にかなった適したものであるかは、私が考えることだ。平凡なものが欲しい時もあればそうでないときもある。そこまで求めるのはやりすぎだ。
得られたものの活かし方は、自分で考えるべきことだ。