ChatGPTの失われる欠片

ChatGPTに神を見た

ChatGPTの限界が見えてきた。落ち着いてきた。あれは万能の神ではない。神もどきでさえありえない存在だ。しかし、そこに神の幻影を見た者も少なくないはずだ。

何を聞かれても、明瞭らしき回答を与える存在。救いを求めれば、救済らしきものを与えてくれる存在。そこには、間違いなく神の欠片が存在していた。

しかしながら、神の欠片を手にとることはとても難しかった。 

通常の検索サイトでも、中に人がいるかのように、質問形式で入力する人はいた。また、英語圏では、質問文で入力することも珍しくないようだ。これは言語の特性にもよるだろう。英語の場合は、その質問からある程度自然に単語検索が可能になる。

そう考えると、自然言語によるオーダーというものは、ある種の自然な手法なのかもしれない。

単語で検索して、検索エンジンから適した回答を得ようとする行為は、検索エンジンに対して特化した行為と言えるかもしれない。とはいえ、検索エンジンがなかったときに、文献から目指すべき情報を探すとき、そこで会話文で探すことは不可能であった。キーワードとなるべき単語から、その文献の内容をあるていど目星をつけて探していたのではなかろうか。

自然言語によるオーダーは、そのキーワードによる文献検索とも異なってしまう。そこには、やはり失われるものがある気がする。それをカバーできるほど、今のChatGPTが育ってはいない。

今後育つ可能性はあるが、自然言語で人間同士であっても伝えることが難しいこのニュアンスを、Chat-GPTが汲み取れる未来は今のところ見えてこない。

ChatGPTは新たな手法

ChatGPTの担う実質的検索機能と、今までの検索エンジンでの検索手法は、別々のものとして考えたい。

今後両者が結果において合流する可能性は考えられるが、それは今考えるほどではない遠い先のことになるだろう。

一定の先を見据えたとしても、ChatGPTで失われるものがある。それを失いたくなければ、今の手法を失う訳にはいかないし、軽んじるわけにもいかない。Chat-GPTは、私に対する福音ではなく、もしかしたら悪魔かもしれない。

ChatGPT Plug-inの功罪

ChatGPTに、新たないプラグインが導入可能になったようだ。これによって、苦手としていた最新情報へのアクセスが可能になったということのようだ。拡張性が与えられたことは、API利用の裏返しでもあり、サービスとしては望ましいことだ。

しかしながら、そこにはChatGPTがほのめかしていた自由な対話への期待はない。APIやPlug-inで絞り込まれた世界での活躍は、ChatGPTの限界を顕在化させる役割を果たしてしまった。

万能者になりきれず、ひとつのインターフェースに落ちついてしまった悲しみを認めざるをえない。そもそも、ChatGPTにとってはそれが真の姿であったのかもしれないが。

サービスとして、その有用性を示し続けるためには、いかに有用であるかを示すことになり、それは限定された領域での限定された結果に対して与えられることになる。裏返せば、ChatGPTが見せてくれた神の欠片を積極的に剥がしていくことにより、明確な有用性、つまり結果の一義的確定性を得ていくことになる。

それでは、あの欠片が成長する場所はどこにあるのだろうか。世界的資本が有用性に向かった結果、それができる場所はあるのだろうか。

もしそんな素晴らしき場所があり、成長を遂げた結果、私たちは大いなる裏切りに直面するのではないだろうか。

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