崩れた体調が全快する瞬間というものはわからない。いつのまにか平常に戻っているし、もどったことさえ意識はされない。しかしながら、治りそうだという感覚は、とても甘美で魅惑的なものである。感じられない健康よりも、よほど健康を体感することができる。
微熱などの軽い体調不良であれば、全身から汗がでてきて、上がった体温がつらくなく心地よいとき、体全体に生を感じる瞬間である。これが心地よいのは、体調不良の裏返しに過ぎないのか、それ以上の積極的なものがあるのだろうか。
頭痛が引いたときのすっきりとした感覚も捨てがたい。頭痛がなくなるように願うだけで時間が遅々として進まないところ、頭痛が消えてくると、思考は明瞭となり、積極的な意欲さえ生まれてくる。それまでの無為な時間を取り戻そうとでもするかのように。
しかし、これらの感覚はほどなくして、いやまさに汗が引くように失われていくことも、私は今思い出している。このいっときの至福は、私に与えられた褒美でもあり、それ以前のつらさを忘れさせる薬でもある。この薬に抗うことは、この心地よい生をあえて脇に置かなければならない努力を強いるのだ。
この汗が引ききったとき、私は平常な、健康な体を取り戻す。そして、私自身への気遣いをきれいに忘れ去る。そしてまたいつか、近いうちに、後悔が私を襲うのだ。これは避けられないのか。避けられるのか。
友情は維持するものだろうか。健康は維持するものだろうか。当たり前に、何もせずに存在するものなのか、つねに手を入れて、育てていくものだろうか。肉体という摩訶不思議なものを授かり、日頃完璧ともいえる状態を与えてくれるがゆえに、手入れの必要性を意識することはない。しかし、それを意識し続ける人たちはいるではないか。それにいかような名前をつけようと、いまそれらの名は私には影響しない。言葉ではなく、この感覚を、忘れることなく反芻できることが、新たな一歩となることを信じている。