放言の気味悪さ

古代史については、十分な証拠も少なく、限りある資料から推察する方法により把握することになると思います。日本に関していえば、文字としての資料とされるものは古事記や日本書紀などに限られ、その他に大陸側での日本に関する記述があり、それ以外には遺跡などにより研究されています。当時の文化をすべて詳らかにすることは不可能ですが、それでも一定の見解が示されています。

Facebookのグループなどにも在野の研究を示される方がいます。そういったものを見ていて気になることが、特定の結論が絶対的な真実であるとの考えを示す方が珍しくないことです。特定の研究に確信を持つことはあると思いますが、他の見解を一蹴する様子を見ていると、陰謀論の議論と同じような印象を受けます。すべての根拠を毎回示すことは量的にも難しいですが、そういったものは理由付けについても乏しいことがよくあります。

Twitterなどの短いやり取りでは議論にならないことは納得しているのですが、文字数の問題としてではなくそもそも議論にならない状況がFacebookなどのある程度の量の表現が可能なところでも目に付きました。

それぞれのシステムの問題は鶏と卵なのかもしれませんが、表現が難しいことと議論が噛み合うか否かについては、それほど強い関連性はないのかもしれません。わかりあるときはわかり合えますし、噛み合わないときはどこでも噛み合わないのかもしれません。

このような、相手がいるにも関わらず、自分の考えを放言するだけの行為にはどのような意味があるのでしょうか。相手が賛同してくれればそれで良し、相手が賛同してくれなければ相手を否定してそれで良いのでしょうか。

思い返せば、このような特定の考えに対する固執は何も特定のSNSやインターネット上に限られるものではありません。陰謀論などはそもそも歴史があります。人が生きていくうえで、常に限られた認識内容を根拠に判断していかなければなりませんので、思い込みそもそもを否定してしまえば人は動けませんし生きていけません。しかし、一度判断したからといって、それにこだわり続ける必要はありません。意見を変えることはなぜこれほど難しいのでしょうか。特定の考えは、成立した途端にそこに至る不完全な思考は消滅していまい結論だけが残るのでしょうか。そのため従前の思考と現在の新たな視点を比較することができず、新しい視点の不完全さが目立ってしまい、仮初の結論の確からしさだけが力を持ち続けるのでしょうか。

この傾向は、根拠が少なく推論過程が大きい分野で目立つように思います。推論の比重が大きいからこそ、自らの感覚に精確に合致する結論を導きやすく、それを変えるなど思いもよらないという状態が生じやすいのでしょうか。このように考えると、議論とはそこまでの思考の過程及び結論を複数併記して検討しなければならず、とても高度な思考であるとわかります。一部分だけを比較しても意味がなく、どの部分が重要なのか全体視しつつ細部にも視点を落としていく作業を繰り返すことは、複数個の重さの異なるお手玉を回し続ける難しさがあるのでしょう。

嫌っていても仕方がないので、得るものが少ないと思えば距離をおいていこうと思います。

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