知識の組織への一体化への難しさ/「八甲田山死の彷徨」新田次郎

「八甲田山死の彷徨」を読みました。Wikipedia三大文学とされる「死の貝」「羆嵐」と合わせて3作とも読んだことになります。被害の規模としては「死の貝」の日本住血吸虫症が断然大きいのですが、八甲田山の雪中行軍については避けることができたという気持ちのさせることと、個々の死が迫ってくる様子が描かれていることから他2作とは異なる重みを感じました。

同作が史実とどこまで一致しているかはわかりませし、小説ではある程度の着色があるようですが、思ったところを残しておきたいと思います。

日露戦争の蓋然性を踏まえた当時の軍部において、八甲田を超える経路を確保することは重要なことでした。そこで、第8師団所属の第5聯隊と第31聯隊が、それぞれ雪中行軍をすることになりました。それぞれの屯所から出発し、山を回ってお互い逆方向で進むことになりました。この雪中行軍については、旅団や師団からの命令としてではなく、旅団長が促す形で競争させ、各連隊の大尉がその明らかな言外の意を組んで実行するという責任の所在を不明確にする形で行われました。組織としていかがなものかという面もありますが、旅団や師団としてこの雪中行軍を重要視していないとも思えました。重要視していれば、旅団や師団として積極的に取り組む形をとるためにも命令を下さない理由はありません。有意義ではあるとしても、各聯隊からの自主的な訓練の体で構わないといったところに、この雪中行軍のリスクとのアンバランスさを感じました。

結果として、第5聯隊は38名が一人も欠くことなく11日間予定の行軍を完遂した一方、第31聯隊は210人中199人死亡という結果が残りました。両隊の大きな違いは、構成の違いと隊長の意識の違いにあったように思います。

構成の違い

第1に構成の違いとして、まず隊の人数が大きく異なります。

第31聯隊は第5聯隊の約5倍の人員である210人により編成されています。210人の中には大隊本部もいたとのことです。編成そのものとしては約200人となれば中隊規模であり大尉が率いるに適度な人数です。

他方で第5聯隊はいわば少数精鋭の38名です。しかも兵卒はわずかであって、各々に目的意識を持って行軍させるなど、まさに雪中行軍の可否を検討する体制です。そして、死の危険を認識したうえでいかにそれを避けるかに苦心しています。

通常編成でやってみようという第5聯隊に対して、科学的に実証検討してみようという第31聯隊ではその考え方が全く異なります。作中に描かれている第5聯隊の第31聯隊へ(一部の)の対抗意識が悪い方へ現れてしまっています。

死の危険のある雪中行軍では、一人の脱落者や負傷者が出るとそれが隊全体の危険に及ぶ可能性があります。第31聯隊は前年の行軍で認識していたことですが、1人が動けなくなるとそれを助けるために2人は通常行動が取れなくなり、この不具合は隊全体に波及します。少数精鋭であれば、きめ細かな対応が可能であり負担を適切に分配できる可能性が高いです。そもそも38人で役割を分担しているわけですから、助長性の高い分配や人員となっていることも臨機応変の対応を可能にします。

他方で、通常の中隊構成の第5聯隊では、そのような特別な対応は想定されていません。通常の行軍と同じ対策しかなく、雪中での行動不能への対処が重くのしかかります。また、これは次の指揮官の問題にも関わりますが、直接的に全体を把握できる規模ではなく、命令系統が複数層になり時間的コストも生じてしまいます。

結果として第31聯隊でも凍傷を負った者を出しながらも、遭難一歩手前とはいえ全員が生還を果たしました。そして、第5聯隊はほぼ壊滅的損失を受けました。第5聯隊としてもちろん想定していた結果ではありませんが、通常編成でやってみた結果全滅しましたというのは、なるべくしてなったと言えると思います。

第5聯隊で生き残った兵卒は、全員が雪山の経験者でした。具体的には炭焼きのために雪山に入った経験がありました。そのため、雪山がどういうものか知っており、どのような準備が可能かを知っていました。そのため自主的に対策をとりました。自主的なものですから、もちろん軍から費用は出ません。直前に知らされた任務に向けて自分の身を守るために自腹を切るという判断ができた者だけが生き残りました。他の兵卒は、日頃どおり、命令に従って行動しただけでしたが命を失う結果となってしまいました。

隊長の意識の違い

第2に隊長の意識の違いとして、雪中行軍に対する取り組みの徹底さに違いが生じています。

第31聯隊の隊長は、前年の経験から雪山の厳しさを認識していました。そのため、特殊な実験的編成を組みその構成員についての選出にも全権を求めました。そして、雪中行軍すべてについて自分の判断がとおる形にこだわりました。それは事情を認識していない上官の口出しがあれば雪中行軍が失敗し死者をだすとの現実的な認識があったためです。そのために、計画書を提出した段階から上官の意見に対してすべて対抗しています。そのため、事情を理解した隊長が編成から行軍までをすべて指揮するという理想的な状況が生まれました。

他方で、第5聯隊の隊長は雪山への恐れを認識し、第31聯隊指揮官へ教えを請うています。そこでは、第31聯隊指揮官は惜しげもなく知見を披露し、行程をほぼ開示するとともに、地元の案内人が必須であることを伝え、同じ師団内で協力したい意思を明確にしています。第5聯隊隊長もそれを素直に受け入れますが、結果としてそれを貫き通すことができませんでした。

第5聯隊では、隊長が指揮権を持っていたのですが、研究・指導のために同行した大隊本部の少佐が事実上指揮権を取り上げてしまいます。これは編成時から懸念されていた事態でした。隊長も連隊側も大隊本部が指揮権を取り上げる危険性を認識しつつ、大隊本部の同行はあくまで研究のためであるとの建前を重視するに留め同行を許可しています。結果としてはこれが被害の拡大をもたらしました。少佐はまずは案内人を拒否し、隊長も従わざるを得ないとの判断をしました。その後、行軍命令を少佐が行い隊長はそれを黙認し、その後は事実上少佐が指揮権を持ちました。これでは、第31聯隊へ教えを請うた隊長の知見は活かされません。個々の判断でも、初日の夜間行軍の判断の違い、その後の帰路の選択の違いなど、部隊は全滅に向けて進んでしまします。

作中では、第5聯隊隊長がいわゆる平民出身の現場叩き上げであり、軍隊の階級関係以上に上官に逆らうことができなかったことを描かれています。意見具申ができないことは危機管理でもよく取り上げられる内容です。複数の人間がいたとしても、率直な具申ができなければそれは居ないのと同じです。結果として第5聯隊は雪山への知識の皆無である素人が200名を率いるという状態になってしまいました。

知識の共有

この雪中行軍について軍内部で最も知見を持っていたのは第31聯隊隊長でした。そして隊長が最も頼りにしていたのは地元の案内人でした。地元の者たちとて万能ではなく、基本的には雪山を行くことは危険なことであると認識していました。実際に身内の者が亡くなることも身近なことでした。それでも、不可能ではなく、経験の豊かな者においては、必要があればできなくはないという認識でした。生活のかかった地元民の認識がこのようなものである場所に素人が向かっていくというのは非常に危険なことです。そのため、第31聯隊ではできるかぎり地元民の知見を取り入れようとしました。案内人は単なる道案内以上に、雪山に関する知見を提供してくれる協力者です。他方で第5聯隊では、当初から案内人を拒否しました。隊長は案内人を選任した段階で大隊本部に報告する考えでしたが、大隊本部としては第31聯隊が案内人を使うなら第5聯隊は案内人なく行軍を成功させようという意識があったようですから、隊長の根回しとしては不十分だったでしょう。第5聯隊は死の危険がある場所に何の準備もなく特攻したことになりました。

第5聯隊について悪しき精神主義と評価するのは簡単ですし間違ってはいないと思います。しかし、できるかどうかわからないから、先ずは試してみようという考え方事態は間違っていないと思います。第5聯隊ではそのために直前に少数で日帰りの登山をしていますが、快晴に恵まれ結果ありきの試行となってしまっていました。

第5聯隊の雪中行軍を成功させる鍵は、第5聯隊の中にも生き残り兵卒のところにありましたし、同師団の第31聯隊にも、地元の案内人の中にもありました。しかしながらそれを第5聯隊の知識としてすくい上げることができませんでした。第31聯隊ではそこに気づくことができましたが、第5聯隊は気づけませんでした。

また、第31聯隊も案内人たちに十分な対応をしたかは疑問です。道中の案内人に対する報酬は定額とされており、それが十分であるとの描写もありますが、最後の八甲田超えについては具体的に死の危険があり、それでも報酬は変わりませんでした。しかも、行軍以外の軍と出会うところや村に到着するときには案内人は最後尾に回され名誉も与えられません。これらからすれば、案内人たちは第31聯隊に利用された、ある意味で騙されたともいえます。当時軍に逆らうことはできなかったともいえます。そう考えると、第31聯隊隊長の知見は見るべきものがありますが、地元民の協力が得られたのは軍という背景による強要でありまた搾取であり、運が良かった面も多分にあったと思います。

八甲田の雪中行軍を機に軍の雪山に対する対応に大きな変革を見たといわれますが、第31聯隊隊長でさえこの対応であったことからすれば、その変革も最速のものであったとはいえないでしょう。軍という組織とちて知見を育てることの難しさが感じられました。地元の一個人が当たり前に知っていることが、組織としての知識となり活かされるまでの道のりはその組織そのものの能力に大きく影響することになります。

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