野良を見かけなくなる/「死の貝」小林照幸

5月になってから鶯の鳴き声が聞こえてきます。以前から聞こえていましたが、近年またふと気が付きました。もしかすると、止まっていたときがあったかもしれません。聞こえる声は1羽だけのようです。縄張りなどあるのでしょうか。朝方に心地よく聞こえてきます。

最近では、スズメを見かけることが減ってきました。環境省の調査結果がありましたが、90年代から10年代で約3割ほど減少していました。体験としてはそれ以上になります。あれだけ騒がしかったスズメの鳴き声を聞くことがめったにありません。近場での農地など自然が減少したことの影響がありそうです。そいうえば、駅舎などにスズメの巣を見かけることも最近はありません。

・ アマサギ、ツバメ、ムクドリ、スズメなど、農地など開けた場所を利用する種の総個体数が減少していました(別紙「1990年代調査からの増減15種」参照)。

・ ツバメ及びスズメでは、1990年代調査時の農地の割合が高い場所ほど、個体数の減少幅が大きいという傾向がありました(別紙「減少した種」参照)。

2021年10月25日 環境省 自然環境保全基礎調査全国鳥類繁殖分布調査(2016-2021年)について https://www.env.go.jp/press/110125.html

最近では野良猫を見かける機会も減ってきました。まったくないということはないのですが、久しぶりに見かけると珍しいという印象はぬぐえません。昔は間違いなくもっと多くいたところです。全国的に減少しているのか増加しているのかはわかりませんが、野良猫が生きづらい環境になってきたのかもしれません。野山は減りましたし、街はきれいになりました。野良猫が生活できるとしたら、いったい何を食べているのか不思議になってしまいます。

もちろん目につかないだけで多様な生物がいるのでしょうが、身近に感じていた彼らがいなくなっていくというのは、とても寂しく感じられます。私たちが便利なように地域をつくりかえ続けてきた結果ではありますが、積み重なった結果は大きいです。

「死の貝」小林照幸

「死の貝」小林照幸を読みました。Wikipedia3大文学の一つと言われているそうです。他の二つは、「八甲田山雪中行軍遭難事件」「三毛別羆事件」です。前者は読んだりしたことはありますが、後者はまだありません。本書は、ながらく絶版となっていた単行本の文庫化で、数日で重版されたようで、Amazonランキングでも上位に入っています。売れております。

日本住血吸虫症の認知から、原因の解明、そこから対処療法の模索、そして根絶へ向けた一連の歴史が書かれています。日本に複数個所見かけられていた原因不明の症状が、症例が積み重ねられて病気として認知されている過程から、ページをめくる手が止まらずひきつけられます。当時の時代を考えても第二次世界大戦直前の時期であり、行政民間を含め継続的に取り組まれていた事実に驚きも感じました。

そもそも日本住血吸虫症の発見自体が大きかったようですが、日本住血吸虫症の中間宿主として新種の貝であるミヤイリガイが発見されるなど、最初はほぼ何もわからない状態からのスタートだったことが良くわかります。そこから、疑わしい事象を探っていく様子は、書かれていることだけでも複雑な経路をたどっています。記録に残されなかった活動はより多くあったことでしょう。

感染防止のためのミヤイリガイの撲滅に向けての取り組みが、繁殖場所である水路の環境を変えることであり、水路に一定量の生石灰を定期的に撒くことであり、その後は水路のコンクリート化により、着実に効果が挙げられていく様子は、人の行動の影響でここまで環境が変わっていくのかと思わされました。その中で、地域住民による地道の殺貝活動はほとんど影響が認められなかったことも印象的でした。

結果として症状の公的認知から100年が経過して、ミヤイリガイの撲滅により日本住血吸虫症は解決に向かいました。この本を読んで思い出したのは、「感染地図」スティーヴン・ジョンソンです。これは1840年代にロンドンでコレラが流行したときの状況をほぼ時間単位で再現したものです。これもそもそも最初は原因がわかない死者が次々と生じていく状況が克明に描かれています。

当時はこういった病気の原因は瘴気であるとする瘴気説が大勢を占めていたということがあり、これは日本住血吸虫症について「死の貝」でも触れられていました。「感染地図」では、瘴気説はだれもが責任を押し付け合った結果だとも表現されていましたが、さまざまなものが疑われて、最終的に反論することがない瘴気だけは自らの潔白を晴らすことができなかったということになります。しかしながら、誠実な活動の結果、水が原因だということが科学的に示されて行きます。もちろんその過程では、行政や学会は一笑に付す形で相手にしないということも、いつの時代も変わらないのだと思います。そして、いつのまにか受け入れられた際には、一笑に付されたことは記録には残されない。これも不変の法則です。映画シン・ゴジラのゴジラ登場シーンを思い出します。

ドキュメンタリーと聞くとどうも苦手なところがありましたが、事実を淡々と整理してくれるものにはやはり価値があるように思います。得られることは多種多様ではありますが、人々の行動の積み重ねられていく過程をもっと見ていかなければならないと思います。

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