枠の中で

子どものときは、空想にふける時間がいまより格段に多かった。現実の中に生きては居たが、空想の中にも同じように生きていたと思う。空想という言葉をあてがわれることはなく、現実とは別の空間ではあったが、それは間違いなくそこに存在していたものであった。年月が経て、私の頭の中には現実という強固な枠が造られてしまった。この枠の内側と外側は明瞭に区別され、枠外からの流入は極めて慎重に判断されることになった。枠外の事象に関しては、枠外というそれだけによって正確な判断も不要とされ、焦点を合わせることさえ不要にされてしまっている。

枠を崩すことは難しいが不可能ではない。枠を造ったのは私であるし、誰かに枠の位置を示されたわけでもない。私が勝手に造り、私を勝手に縛っているものに過ぎない。枠を造ってきた私の生き方の中には、枠を壊す方法は残されていないだろう。別の枠の造り方や、壊し方は私の外にある。

私はこれまでどれだけの空想を忘れてきたのだろうか。数日、数ヶ月、数年間を考えると数え切れるものではないし、もはや数え確認することはできない。小さなころ考えていた「もし」は、今ではありえないこととして捨ててしまった。あのときの「もしかしたら」は、考えるだけ無駄になってしまった。隕石は降ってこないし、まわりの環境が消え去ることもない。私を捉えたものは想像できないほど強く大きい。

世の中の解像度などというが、今の私にはそんな高解像度のレンズは持ち合わせていない。すべてのしがらみを忘れて子どもの頃に戻ることもできない。酒などに頼って欠落を生み出せば意図的な対処はできるのかもしれない。選択肢ではあるが、そこに継続性と安定性はないだろう。

結局私には私なりの理詰めで考えていくしかない。常に枠を意識して、枠の中でもがくしかない。

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