平常と異常の静寂

先日、喫茶店にいるときに店のブレーカーが落ちたのだけれども、あのときの静寂はそうそうに出会えるものではなかった。わかりやすいところでは、証明が落ち、あたりが暗くなった。完全な暗闇にならなかったのは、非常灯のようなものがあったからだろう。確認することを忘れてしまっていた。店外の看板の証明や電子機器から漏れる光により、暗闇というよりは薄明りがついた山小屋のような雰囲気であった。

店員の明るく現状報告する声が響いたが、それ以外の音は、電気が止まったときのあの太く力が漏れ出す音以外には聞こえなかった。店内に客は数十名はいたと思うが、それまで席で会話をしていた者たちも、誰一人声を発する者はいなかった。状況に疑問を呈する声も、停電かと確認する呟きさえも、何一つ言葉が発せられていない空間は、とても静かであり、それ以前より落ち着いた素晴らしいものであった。

数瞬して、BGMが消えたことに気が付いた。より正確に言えば、BGMが流れていないことに気が付き、それまではそれが流れていたことに気づかされた。静寂は耳を刺激する。あの空間が粘度をもってなおかつさわやかに包み込んでくる感触は、音がいなくなってからわずかな時間しか味わうことができない極上の珍味なのだ。意識的に音を閉じてもなかなか体感できない。あの不意打ちの断絶こそが味の仕上げに欠かせない。

ときおり日本人は地震に対して反応が鈍いという話を聞く。地震だけでなく自然災害に対して慌てたり驚いたりという反応を示すことが乏しい。平常化バイアスということになるのだろうが、停電に対して全く声が上がらないことは驚きだった。落ち着いているということもあるだろうが、何が起こっているのか冷静に情報を集めようということもあったのだろう。

日常の中の音は多い。それでも私たちは音をほとんど意識していない。音が聞こえるのは、音を聞きたくなる音が聞こえなくなったときだけだ。

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