不十分さへの批判

不完全なものを非難したり、不十分な手助けに不満の述べるという状況はよくあります。気づかないうちに私もしているかもしれません。しかし、そのような不服によって萎縮したり、見放されたりしてしまえば、その不完全や不十分なものさえ得ることができなくなってしまいます。求めていたものが十全の形で得られなければ意味がないと考えているのかもしれませんが、何事も完璧を求めては苦労が多くなるだけです。

限りある資源や好意によって成立している社会の中で、不満を主張するだけでは何事も前進することはありません。厄介事だと思われて人も資金も引きていくことのほうがあり得る話です。80点のものが、余白の20点への避難によって0点まで下がることは望ましいこととは思えません。

避難する側としては、既存のものがなくなることは考えていないことが多いでしょう。問題点を指摘しただけであるとか、事実を述べただけであるとか言いそうです。しかし、仮にそうだとしても、言い方というものがあります。余計な負担を追わせて達成をより難しくしても、何ら意味はありません。

行為をする側としては、かかわらないようにする、あるいは反応を気にしないようにするというところになります。しかし、そこまでして行為をする気にはならないでしょう。

今あるものを理解して、足りないのであればどうすれば改善するのか、足りないままでもその限りで効用を享受するのか、言葉を出すときは慎重に対応したいです。

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