世間話が難しいという感覚は、きっと無くなりません。これには正解がないから、こう言えば良いというものがありません。
世間話は重要だ、世間話なんて無駄だ、云々。これは宗教に匹敵する争いを生むため、結論は出てこない。そのために、世間話についての考え方についても、結論は出てこない。だが多少なりとも気持ちの整理をしておきたい。
世間話のよくあるなと思う例としては、天気の話だとか、テレビの話だとか、趣味の話だとかが思い浮かぶ。ところが、世間話としてマンネリになってくると、逆にぎこちなくなってくる。この中では、天気の話は、明らかにその場をつなぐ話だということは伝わり、やはり鉄板の安定性を持っているように思う。
それ以外の話が必ずしもその力を出し切れていないのは、そこにその人となりが表れてしまうからだ。誰もが同じテレビを見て、誰もが同じような趣味を持つ社会であれば、それは天気のようになんでもない話で終わることができるだろう。しかし、今はそういう時代ではないのだ。そもそもが、テレビを見ているか、趣味というものを持っているかさえ、触れがたいところになっている。趣味だなんて、プライバシーの極地といっても過言でもないのだ。
難しいなあと。
そうであれば、むしろ、その場の人間として考えを持ちうる政治や宗教を話題にしたほうが、まだ無難といえるときもあるかもしれない。何も議論を戦わせる必要はない。それらに関する社会的事象やできごとについて、感想を話せばいいではないか。そして、一線は踏み込まない。
実際に、そういう場はあるし、そこに心地良さもある。昨今のニュースについて、自分の考えを話すことほど、楽なことはないのだ。
それでもやはり、テレビや趣味は考えて置かなければならないのかもしれない。そのためだけに整えた趣味を持つことにする方法はある。趣味の定義なんて、存在しないのだから。それで円滑になるのであれば、準備という投資にも価値がある。踏み込まれても構わない外堀を用意して置く。それだけの準備をして、それを活かしていくのであれば、身なりを整えることと変わらないのかもしれない。そうか、世間話はドレスコードだったのかもしれない。
挨拶だと考えれば、型にはまっていた方が安心感もある。使う方も安心するし、使われる方も安心する。その中で、その人のことがうかがえる内容は、1割ぐらいでいいのではないか、いや、必要ないのではないか。嘘はよくないが、趣味という言葉を広く考えれば、関心があればそれで足りる。野球が好きです。自分はプレイしません。プロ野球も特に見ません。ファンもとくにありません。ただ、時々テレビで見たりします。それで趣味と言っても構わない。考えすぎる必要はない。