教養と継続とあっさりと

あっさりの中のこだわり

教養の高い人は、物事や人に執着がなく、あっさりしている。

特定の事象に対するこだわりがない。機会を大切には思っていても、その出会いが初めてではなく、再び出会うことを知っているからである。

継続ができている人は、特定の機会に対する執着がなく、あっさりしている。

継続は習慣として現れる。今のその1回に執着していると、自分の時間に対するコントロールを手放すことになる。継続するとは、今の機会を切り上げることだと知っているからである。

あっさりとした人は、自分に対するこだわりを持つ。自分に対する執着を持つ。機会や他者に対するこだわりや執着は持ち合わせない。

彼らは、自分の中に規準を持っている。自分の中で、費やす行為の量が定められている。その規準が満たされたならば、そこで判断がくだされる。それはその瞬間の可能性による判断を超えた、行為による判断である。

彼らも、機会を大切にするし、他者との出会いを尊重する。そして、自分がコントロールできないことが存在することを知っている。

自分ができる行為の範囲、自分が影響を与えられる事象の範囲を規律し、そこを超えた部分に対しては、他者に委ねる。他者に委ねてしまえば、自分はそこから離れることができる。それもあっさりと。

他者のこだわりを知る

他者から見れば、彼らはとてもあっさりしている。執着がないように見える。しかし、それはあなたが彼らにとって他者であり、他者にとどまっているからだ。彼らは、彼らの中では強い執着を持ち、狂信的なこだわりを持つ。もし、彼らがそれを表に出してきたならば、そこには新たな地平が開けている。

他者のあっさり具合を見つけたならば、より注意深く観察してみよう。興味がなさからくる態度なのか、それとも規準に基づいた結果としてのそれなのか。観察し見極めることで、その人が目の前に浮かび上がってくるはずだ。

見極めるためには、結果に至るまでの行為を観る必要がある。そこには充実さがあり、終着における落差が認められるはずだ。意外な終着を見たときに、その意外さこそが、今まで気づくことができなかった行動原理の現れであるはずだ。

習慣化している事柄との区別は難しいかもしれない。習慣は、自分への規準を適用した成れ果てといえるかもしれないが、必ずしもそうではない。偶然の積み重ねの場合もあり得る。

こだわりか偶然か

規準に従う意思が必要なのかどうか。そこに違いが出てくるのかどうか。この違いは認めたい。自ら選び取ったものと、それ以外のものは異なって然るべきだ。あえて選んでおらずとも、その人の選択の必然の結果として選ばれたものと言える場合も含まれるが、意識されているものは、その人にとって価値がある。

意識して選択されたものと、そうではないものは、その人にとって異なる意味合いを持つ。その人の要素は多様であっても、意識した選択は、中心として力強さを持つべきだ。そこに視点を合わせることで、環境の中の人間が、独りの人として見えてくるはずだ。そして、それを伝えることで、彼の核心の一端に触れることさえできるかもしれないのだ。

視点を変えれば、私にとって選択した規準というものはあるだろうか。そこまで私は、私として生活しているだろうか。自分では気づかないという言葉に甘えたくなるが、表現できるものを持ち合わせていない。つまらない人間である。

私のあっさりは、冷めた無関心のそれだ。そこにこだわりはなく、自分に対する終着はない。自分に対する甘えと、楽に流れる慣習があるだけだ。何かしら初めて見るのも悪くない。

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