量質はどこまでも量

量質の話

量質の話については、何度もであったし、何度も納得してきた。質を求めるなら量を求めなければならないという話だ。質は量についてくるし、量無くして質は得られない。

それが質だと言ってしまえばそうなのだが、言ってしまえば量だとか質だとか言うだけ無駄である。とにかく取り組めということでもある。量だとか質だとか考えている時間だって放り込めるわけだから。

それでも質にこだわってみると、いかに質を落とさずに、あるいは一定の質を確保しつつ量に取り組むかということにもなりそうである。しかしこれはやはりおかしい。質にこだわる時間さえ放り込めるわけだから。

質なんてものは、後から振り返ってわかったり、評価できるものであって、途上において考えることではない。後から振り返ったときに、無駄だったなと分かったり評価できるものがあってこそ、量を追求してきたといえるはずだ。

完璧な質がありえないことは素直に納得できる。そうであるならば、そこには必然的に無駄が含まれているのだ。

どのような分野でも

量質の話を始めて聞いたのは、勉強の分野だった。限られた時間の中で、あるいはできるだけ短期間に成果を上げるにはどうすればよいか。まさに質が求められていたのであるが、目標を達成している人が結局は量に行きついていた。

しかし、これは勉強の分野に限った話ではない。趣味の分野でも同じことだ。それを語れるだけの人には、それだけの無駄があったはずなのだ。良質のものだけを摂取して成長しようなどというのは、ありえないことであるし、できないことであるのだ。

趣味の分野で無駄など考えるだろうか。良質だろうが悪質だろうが、むさぼり食らうように摂取するものであろう。その結果、何者かがそこに誕生することになるわけである。

勉強なんて趣味のようにどっぷりつかれば良いのである。これは試験的なものについて考えているが、研究についても同じではなかろうか。当然の前提について、寝ててもいじれるようになれば、見えてくるものも変わってこよう。

キュレーションという罠

そうはいっても、目安となるものであったり、キュレーションされたものであったりというものは存在する。それらを無視する必要もない。そのようなものも貪欲に触れていけばいい。原典か要約かなど、違いは在って無いものだ。簡単に手に取れるところにあるものは、すでに要約されたものであることのほうが多いのではなかろうか。原典に見える背後には、いまだ見通せていないさらなる原典があるだけだ。

そうすると、半端ものが質だと考えているものも、量のひとつにしかなり得ないものかもしれない。追い求めることができる質などというものはそういったものだ。本当の質は、それこそ本質であって、そもそも追い求めてたどり着けるものではないのかもしれない。

キュレーションに意味があるとすれば、自分自身のキュレーションを表現したく成れば、それはひとつの達成度の目安になるということだ。もちろん、それによりさらに自分の力不足を痛感することになるのである。

キュレーションするということは、自分なりに、抑えておくべきもの、つまり基本を整理するということである。そして、この基本とは流動的であって、属人的であることを受け入れなければならない([基本に囚われたこと])。客観性を追い求めることはあっても良いが、この流動的属人性を心に留めておくことで、変わり続けることができるのである。

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