基本に囚われたこと

原則と例外、基本と応用

原則と例外や、基本と応用と言ったときの原則と基本については、十人十色であるし、最後は信仰の戦いになることもある。どこまでが原則・基本なのか、どこからが例外・応用なのか、一義的に導けることは多くない。

そもそも、原則や例外という考え方自体が尊重されているとは思えない。少なくとも高校までの学校教育について、この考え方に触れた覚えがない。もちろん原則という意味や例外という意味については知っていたし、どこかで言葉として出てきたことはあり得たと思っているが、それが活かされた事例やその考え方について正面から問われた記憶がない。

定められた教育内容においては、それらはいわばすべて原則として扱われるものであって、すべてが学ぶべきものであり、学ぶことが望ましいものであったのだろう。そして、原則と例外を合わせて学ぶことは、いたずらに混乱を招くだとか考えられそうなことである。

その結果、原則と例外という道具を使いより精緻な理解が可能であったところで、無理をしてすべてを原則として扱ったり、例外として排除するなどがされた結果、歪みが生まれ、それこそが学ぶものを混乱に陥れている。

原則と例外という道具の使い方は確かに難しいところがある。しかし、それは理解するかあるいは慣れてしまえばとても役に立つものだ。

原則とするからにはその根拠があり、例外とするからにはその根拠がある。それだけである。その根拠とされるものを知ればよい。ただ単に原則と例外の結果を示そうとするから混乱するのであり、そこに至る考えを示せば、それは一つの思考の方法を知らしめることになる。

多数の原則、多数の基本

原則にせよ基本にせよ、そこに絶対的なものはないと考えたい。原則の根拠はひとつは限らないということだ。

原則と例外を考えるとき、いわばその道具は一つかもしれないが、そこに三手の読みが必要になる状況が生まれることになる。しかしながら、理解するとはそういうことであって、考えるとはそういうことなのだ。

理解や思考を放棄させているからこそ、柔軟な考え方に触れることが難しくなる。

基本の重要性、基本の大切さは存在する。しかしながら、基本を教えることはできないと考えるべきだろう。

基本は量を費やした後に生まれるものであって、その逆ではない。基本を学んでから応用を学ぶ、システムとしては美しく、構築物としては見栄えが良い。しかしながら、現実の習得過程はそんなに美しく見栄えの良いものではない。もしそれができるのであれば、すでにそれを得ているからに過ぎない。

原則だろうが、基本だろうが、それは貪欲に学んだ後に生まれる本筋らしさでしかない。最初にそこから始めることは悪くはないが、原則や基本の抑え加減に十全さを求めてはならない。せいぜい濃度の違いでしかない。

それを知れば、そこから必然的に導き出される体系的に理解することは、そのように構築された体系でなければ、誤りといってしまいたい。

その不完全さを受け入れることは、より完全さに近づける場所へ近づくことができるはずなのだ。

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