素人でもわかるのだ

見ている世界

麻雀や将棋など、盤面を把握するのに慣れが必要になる。これは、そこにあるものについて、純粋な情報として処理するに至るまでのチューニングである。

スポーツにおいても、基点となるものを定めて空間や距離感を調整すると聞いたことがある。目印となる点を固定して、それを基準に自分がいる空間と自分の場所を認識するのだ。舞台などでも、初めての場所では同じ準備が必要になるだろう。

このような基点を持つことで、瞬間々々の判断の礎になる。車高が低くほとんど視野がないF1などの運転席の映像を見て不安にあるが、あれも見えている世界が違うのだろう。

見えてる世界によって事象に対する判断が変わってくることは、メディア論の基礎ではあるが、これで思い出すのは、「素人でもわかる」という言葉だ。私にはこの言葉にとても引っかかりを感じてきた。

「素人でもわかる」こと

「素人でもわかる」との言葉は強烈だ。「素人ながらこう思う」でもなく、「私にはわかる」でもなく、「素人でもわかる」のだ。

深く分析するまでの言葉の意味はなく、字句どおりであるのだが、敷衍すれば、「専門家ではない素人である私であっても、それが正しい(間違っている)ことは明瞭に断定できる」という意味だ。

正直なところ、その言葉の含意は当然わかるし、言いたくなる状況があることも知っている。この言葉を使ったからと言って、その人に対してなにか不信感を持ったり嫌悪感を持つこともない。ただ、私は使いたくないことの裏返しで、使われると心に靄がかかるのだ。

自分自身が素人であると認識していること、つまり自分が把握できていない専門的知見が存在していること、専門的知見を自分が備えていないことを把握していること、その状態において、特定の事象に対して自分が判断をしているということ、そしてその判断に絶対的確信を持っているということ。自分が備えていない専門的知見によって判断が変わる可能性を排除しているということ、そしてその排除に疑う余地がないということ。

これは信仰である。

信仰に理由は必要ではない。信仰に根拠は必要ない。この信仰は、あるがままを受け入れることだ。それは、それであるのだ。そうあれかし。

理由や根拠はなけれども、その信仰に至る事情は存在する。その人自身であったり、その場の環境であったり、その対象であったり。それはそこにおいて、そうなのだ。

そして、この言葉を投げかけられた者は、そこにはいないし、そこに至っていないし、そうではないのだ。知ることはできるが、わかることはできやしない。わかってしまえば、それは欺瞞に陥ってしまう。

私の引っ掛かりは、この信仰の不一致にある。信仰告白を受けても、そこには共有されうる基盤がない。私の知らない信仰体系へ迷い込んだときの足元が崩れる感覚。地に足をつけようとすれば、相手との距離が無限に広がってゆく。理解しようとすれば引っ掛かりが重くのしかかり、私のどこかが悲鳴を上げだす。

この言葉によって、今までなかった溝が生まれ深まってゆく。このときに、橋をかけるのは言葉を投げかけられた側だけだ。橋をかけようとする努力は、発言者の際限なき広がりに吸い込まれてしまう。両手を広げた彼の人に立て掛ける物を私は知らない。

何ら制限がなされていないが故に、噛み合うことがないこの対話は、また繰り返される。

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