ChatGPTは魔法ではない

魔法か道具か

ChatGPTでできていることは、驚きはあるけれども、自分ではできないというものではない。手間や時間はかかるが、やろうと思えばできるものだ。ChatGPTは魔法ではなくて道具なのだ。

広義の文章作成能力や調査能力の高さは従前の水準を大きく上回ってきた印象を受ける。しかし、自分でかけない、自分ではとうてい調査できないというものではないのだ。自分で作成できるし、自分で調査できるのだ。

思っている以上に優秀であったという思いの中に、でも自分のほうが優秀だけどねという気持ちが含まれている。もっとも相性の良い類型であろうプログラミング能力についても、それに驚愕している人のプログラミング能力は、それ以上に驚愕に値するものであるはずだ。

たしかに将来的にはおどろくべきシンギュラリティが訪れるのかもしれないし、その可能性は低くはない。それを想定することは大切だと感じるし、実際楽しみである。しかし、それに対する希望的評価を現行に持ち込みすぎていやしないだろうか。

すでに産業革命的革新が生まれているといわれればそうかもしれない。そうであれば、産業革命を経た我々は、それに驚愕するのではなく、産業革命に学び活かすべきではないのか。技術的革新による社会の変化を冷静に受け止めるべきではないのか。

あぶり出される私

ChatGPTが既存の技術の延長線上にあると考えると、それに対する評価の仕方により、道具に対する感覚があぶり出されてゆく。

そこに魔法を観る者は、他の既存の技術に対しても魔法を観る。そこに処理能力の高さを観る者は、他の既存の技術に対してもそれを観ている。

そこに驚きを感じる者は、他の既存の技術に対しても驚きを感じたはずであるが、驚きを忘れている。そこに不完全さを認めた者は、他の既存の技術に対しても不完全さを認めたはずであるが、いつの間にかそれを受け入れてしまっている。

新鮮さが感じられる今だからこそ、私の姿勢があぶり出されていく。そして、あぶり出された私は急速に忘れ去られていく。気を緩めてしまえば、ChatGPTという衝撃は、過去のものに混じり合いその独立性を失っていき、今かろうじて生まれている特異点は空の中に溶け消えて行く。

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