書店がなくなり古書店がなくなり文具屋がなくなった

書店が消える。もう当たり前になってしまったが、比較的大型の書店も消える。単純なる撤退もあれば、建替え等にともない閉店したまま再開しないこともある。書店で本を買うという行為は、簡単には経験できないものになってしまった。

私自身を振り返っても、書店に行くことは減ってしまった。以前はほぼ毎日通っている時期もあった。それは、そこにあったからだ。比較的本を買うことも多いと思っていたが、わざわざ書店へ行っていたわけではなかった。そこにあったから行っていただけだった。

今ももちろん書店へ行くことはあるが、大抵の場合は目的の本がある。ついでにどのような本が並んでいるかは目を配るが、目的もなく行くことはめっきり減ってしまった。ほぼなくなってしまったと言ってもいいくらいだ。

本が売れないから、雑誌が売れないからということは実際そうなのであり、書店の売上が減っていることも、大きな流れとしては変わらないのだろう。本が売れることにより、書店があることにより、何気なく書店に寄ることができたのは、幸福であった。

最近は、特定の本の存在を知るのは、主にAmazonか、SNSでの言及、知人の言及などである。これで困っているというわけではないが、知る経路による影響は受けているだろう。とはいえ、書店であっても置かれている本ということを考えれば、大差はなかったのかもしれない。電子書籍はできるだけ避けているので、ほとんどの場合そのまま注文することになり、自宅に届けられることになる。新刊であれば、書店で内容を確認してから購入するのだが。

このように思い起こすと、比較的新刊しか出会うことがなかった書店よりも、今の方が幅広い本に出会えているのかもしれない。これは悪くはないのではなかろうかという気もしてきた。古のロングテイルという言葉が思い出されたが、Amazonで本を見つけて在庫がなく中古を購入するということも珍しくない。これは書店では到底できなかったことだ。

こういった変化が起こったときに思うことだが、変化前を知っているからこそ、変化後でも対応できるという気持ちになることがある。しかし、変化後から体験が始まる者にとっては、変化後こそが初めての出会いになるわけだ。そして、それが必ずしも劣った経験になるとは限らない。変化前を知る者とは異なる感覚で、その新たな環境で振る舞っていくことになる。感覚も違えば意義も違う。一見同じに見えても、そこには異なる世界が広がっている。結局のところ、今のこれを経験していくほかはないのである。

書店だけでなく、古書店も目立ってなくなってきた。街にいくつかあったそれが、全てなくなった実感もある。そもそも利益が出ていたかは疑問であるが、本との関わりの違いが、古書店の存在にも影響を与えていくのだろう。

文具店もなくなっていく。わざわざ専門店で買わずとも、コンビニもあるし、最近では100円均一の品揃えが力強い。値段における競争力はとても強力だ。高級品は変わりはないが、日常的な部分でいえば、100円均一で十分と思ってしまうことは多くなってきた。安ければ良いという考え方が経済へ与える影響ということへも意識はするが、現実として、これでいいという感覚は否定できない。これでいいのかという気持ちは常にあるのだが。

一昔前の本と文具という知の象徴は、本当の過去の情景になって行くのかもしれない。寂しく木枯らしが吹きそうではあるが、新しい今を手に取っていきたいと思う。

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