静けさを得るために

今年もセミが鳴き出した。ところが、数日前からセミの死骸を見かけていたから、もっと前から鳴いていたのだろう。日本の気候に慣れていない外国人などは虫の鳴き声に気が付かないとききます。セミについても同じなのでしょう。しかし、日本人だからといって虫の鳴き声を意識するわけではありません。

聞き慣れているからこそ、聞き流してしまうことがあります。少し前からセミの鳴き声がしていたはずですから、私は数日の間セミの鳴き声に気が付かないか、気がついたとしても記憶に残せませんでした。あえて意識することではないと整理されているのでしょう。雑音に聞こえることとは違いますが、認識されないということでは似ています。

音が聞こえないことで思い出したことは、店舗に流れている音楽に気がつかなかったことです。雑音を気にしないようにするためや、他の客のやり取りを意識させないために音楽を流すことはほとんどの店舗で行われています。一度停電になり音楽が消えた経験がありましたが、あのときの静寂は驚くものでした。空調の音も消えましたから、森の中にいるような静けさを体感することができました。

こどもの頃に、親と一緒に入った服や洋服やにて、親が「音楽の音が大きいね」と言ったことを今でも覚えています。私は、「本当だ。気がつかなかった」ということを言ったと思います。親は少し驚いていました。親は音楽が嫌いな人ではないし、むしろ好む人でしたが、何が音楽を意識することと意識しないことを分けたのでしょう。もしかすると、私にとって音楽は雑音でしかなかったのかもしれません。音楽を好む親にとっては、流れている音楽は自然と意識されてしまうものであり、まわりの音を消すために流されていた音楽は、音楽そのものを聴いてしまう親にとっては、音量が大きかったのかもしれません。

勉強中や仕事中に音楽を聞く人がいます。そういった人にとっては、理解できる言語の歌詞があると思考の邪魔になるようです。喫茶店で流れるような音楽にはボーカルは入っていませんし、曲調も激しくありません。関心を持たない人にとっては、周りの音を消すために機能するものになりますが、音楽への理解が進めば進むほど、その用をなさなくなりそうです。

音楽がひとつのきっかけとして機能することは有益ですが、集中するためには、結局は究極の無音が良い気がします。耳栓、ヘッドホン、ノイズキャンセリングなど、静けさは努力して作り出すものなのかもしれません。都会で暮らす中では、音に煩わされないという環境は勝ちがありそうです。騒音問題は常に社会に存在しますが、私が思っている以上に問題なのかもしれません。住環境として整えるか、ガジェットを用意して周囲数センチメートルで静寂を確保するか、必要となるコストを考えていきたいと思います。

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